昭和46年10月20日 朝の御理解



 御理解 第45節
 「世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれると言うが、三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生と言われるようになると、頭をさげることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。とかく、出るくぎは打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思うけれど、大声で叱ったり手を振りあげたりする事はないが、油断をすな。慢心が出ると、おかげを取りはずすぞ。」

 おかげをとり外すぞと、私はここんところを、おかげを頂きそこなうぞと、まあ今日はそう言う様な意味で聞いて頂きたいと思う、これは頂いておるものを取り落とすと言う意味でございますけれども、もう目の前に頂くものがあるのに、それを頂きそこなうと言う、これは残念ですね、一応頂いてそれを取り外すならね、まだ良いですね、一遍頂いてそしてとり落とすのですから、それはまあ取り落としてはなりませんけども。
 これはもう頂くと言う一つの迫力と言うか、こつと言うかそう言うのもを一遍頂いて、頂くものを頂いて、そして取り外すと言うのですから又、次ぎに頂こうとする、姿勢も言わば出来ておる。そう言う意味でならば所謂失敗は成功の元である、そうですよね、ああこう言う信心させて貰えば、こう言うおかげを頂かれると言う、絶対的なもの間違いのないものをね、一遍頂きたいですね。
 言うなら慢心の出る位のおかげを頂きたいですね。終戦そして本気での信心を身につけよう、頂こうとまあ一生懸命な思いにならせて頂いて、その信心の焦点も狂いはなかったと、これは過去の私の信心の事でございますけれども思うのです、裸同然で帰って来た、こんな事では親に孝行したいばっかりの、一念で支那大陸あたりにも、渡らせて頂いたものが、みじめな裸同様で一家中のものが、引き揚げて帰ってこなければと言う憂き目にあって、もう目もあてられないと思うた、もう両親も年である。
 今この様なときもし両親か亡くなりどもしたら、もうそれこそ目もあてられん、取り返しがつかんぞと思うた、そこでこの両親が生存中にまだ生きている内に、本当に安心してくれ喜んで呉れ、そしてまあ人並み以上とはおもはんけれども、人並の生活のさせていただけるだけの、おかげを頂きたい。ためにならば一つどの様な修行でも辞さない、私の信心はそこから本当の信心と言うかね。
 今までの信心とは言わば違った信心、勿論おかげを頂きたいと言う事ですけれども、それは親に安心して貰いたいよろこんで貰いたいの一念から出て来ておる、そう言う打ち込みにならせて頂いたら、非常に神様がね何と言うのですか、本当にはっきりして見えられた、頂くおかげと言うものが実に的確、言うならば置いたものを取る様に、それは沢山のお金を儲かったとか、と言った様な意味じゃありません、もう自分の周辺に生きた神様の働きをひしひしと感ずる様であった。
 そのときなりのことであるけれども、必要なものが必要に応じて、頂けると言う感じ、それも最小限度のものなんですけれどもね。明日食べるお米がないといよれば、その明日になればお米がちゃんと与えられておったり、もう塩がないと言えばそれこそ不思議な不思議な事で、塩が手に入ったりまあそう言う意味なんです、がばっとこう儲かるとか濡れ手に粟の掴み取りの様な、例えば当時百万円の宝籤が有ったですよ、百万円の宝籤に当たったと言うおかげではない。
 ですから信心に油断もすきも有ったもんじゃない、いわゆる楽しい信心。ですから例えば私のその時分のお話は、例えば懐の中に空の財布がある、今は空の財布でここの中には一銭も入ってない、けれども明日はいくらいくらのお金が必要なのですけれども、必ずこの財布に幾ら幾ら入って来ると、もう確信をもってお話している、次ぎにあの話しはどうなりましたかと、まるで続きものを聞く様に皆が楽しんでおられた。
 それが不思議な不思議な事ですよ、こう言う様な事でそのお繰り合わせ頂きました、とお話するもう本当に大向こうから拍手喝采と言う様なお話でした。けれどもねそう言う神様を頂いて、考えて見ると、いわば大坪さんの自慢話しが始まったと、言う人は言うておった、成程自慢話であったろうと思いますよね、本当に私は思いますね、自慢話のできる位の神様を頂きたいと思いますね、こげん間違いのないあんた達は頂き切らんとですかと、私はこげん間違いなく神様を頂いとりますよと。
 言う様な自慢話しの出来る様なおかげ頂きたいです、それが一年二年経って行く内にです、それがもう足も手も出ない様な状態になって来た、その手も足も出ない状態もです、もう実に神ながらの事であった。闇の商売をしておりましたが、私の方の店の方達には一つもそんな引っ掛かりはないですけれども、私の上にばっかり起こって来たのです、大きな問題が当時の私の最後にはこれは私の致命的と言う様な、大きな引っ掛かりが出来て来たのです、その時分に私はお話をしておりました。
 今は私は言うなら尾羽打ち枯らし、もう言うならもう借金するところも無くなった、品物を貸してくれるところも無くなった、それは丁度ね、橋を渡っておった、もうそれこそ悠々と言うならば、見ておったら慢心、まあ何と申しましょうかね、怠慢無礼の姿であったかも知れません、増長満々の姿であったかも知れませんね、私が言ったら神様がそれは間違いなく聞いて下さる、だから信心が進んでさえ行けば、そのおかげは大きくなって行くに違いないと、思われるかに見えた。
 ところが橋を渡っておった所がです、増長満々のいわゆる酔ったものがね、言わばあっちへよろよろこちらへよろよろと言った様な、姿でなかったろうかといわゆるその神様の働きと言うか、そう言うおかげに酔いしれておった様な感じ。rそしてね所謂その橋の手摺がこわれておった、そこに気ずかず、そこから真っ逆さまに河の中に落ち込んだと言うのが、現在の私の姿ではなかろうかとお話をしておった、けれどもね、神様の間違いなさ有難さと言うものは、もう掴んで落ちとるのですから。
 もうねもう只ではおきらんぞと、転んでもこの次起きる時は、何か石でも掴んで起きれと言った様な根性なんです、確かに真っ逆様に落ち込んだ、そこで只でぬれねずみではい上がるだけでは、嫌だと、落ち込んだが最後それこそ両手に大きな鯉の一つも抱えてから、上がりたい、もうおかげじゃない、落ち込んだところから、徳を受けて上に上がろうと言う様な根性です。
 私はたしかに今落ち込んでいる姿だ、けれどもこの事をおかげにして、今まで落ち込まなければ頂けなかったものを頂いて、上に上がらせて貰おうと、思うとると言った話しをさせて頂いた時代があった。これ等はおかげを一応頂いた、けれどもそれを言うならば、それはもう本当に神様のおかげの間違いなさに、神様の前には平身低頭、それこそ神様のこう言う素晴らしい働きと言うものがです。
 何十年の信心の間に知らなかった、こんなに身じかにひしひしと神様が、おかげを見せて下さる事を知らなかった、成程生きた神様だと言うことを分からせて頂いた、言うなら生きた電気に通うた、そして大きな電気も例えばコードが破れておるところに触れたりすると、命落とす様な事すらある、身体がびりびりしびれる様な事になって来た、それは生きた神様を頂いておったからである。
 そこでこれは失敗は成功の元としての、おかげを頂いああこう言う時には、こう言う事ではいけないと言う事が分る、そしてその電気をです、様々な事に活用出来れる術を体得して段々おかげを頂いて来たと言う事になる、これはね確かに慢心が出た。そこにおかげを落とす事に、なったけれどもその落とした事がもうおかげではない、おかげは落としたけれども、おかげを落とした事に依って、徳を受けて行くと言う信心に進んだと。そこで今日私の思うておる事は皆さんに分かって貰おうと思っておる事は。
 慢心が出るとおかげを取り外すぞと、私の今の話しはそうであった、そこでなら慢心がでるとおかげを頂きそこなうぞ、と言う事です。これがいちばんつまらんでしょう、私は多くの信心者、信奉者の中にこれがほとんどと思うですね、おかげはもう目の前にあるのにですね、それを頂きそこのうて、一生を終わっていると言う人が沢山あるじゃないですか、こう言うおかげはつまらんです。
 こういう信心はつまらんです、どう言うところからおかげが目の前と言うのに、おかげを頂きそこのうておるのであろうか、タイミングが悪い、いつもおかげとはすり違ってばっかりおる、「世に三宝様を踏むな、三宝様を踏むと目がつぶれると言うが、三宝様は実る程かごむ」とこう、これはね三宝様を踏むからですよ、三宝様をいいかげんにするからですよ、三宝様と思われる物やら事柄をです、粗末にするからですよ、だからおかげとすり違ってしまう。
 皆さん世に三宝様を踏むと言う、その事は分かるでしょう、いつもお話する事ですからここでは三宝様と言う事を、穀物の意として説明がしてあります。穀物と言うのは人の命のために与えられる、食べ物の事、私どもの命、私どもの心、心をいよいよ豊かに、心をいよいよ健全なものにして行く事のための三宝様とはどう言う事でしょうか、分かられるでしょう皆さん、にがい事がらもある、臭い思いをする事も有る、私の上に起きて来る様々な問題様々な難儀、ああと溜め息の出る思いする事がある。
 それを頂かずして心の健全は有り得ない、神様が与えて下さる言わば与えてくださるよりも求めてござる、これを受けて呉よと、そこに貴方の願いと言うものがその向こうに成就すると言う事を、暗にほのめかしながらです、それを受けて呉よと言う神の願い、神の声を聞きとりきらん、そしてそれを難儀な問題だ、困った事だ、そんな事はいや、出来ない事になってしまっているのです。
 三宝様とはここではそう言う事だと思うのです、そこのところを頂かずしておかげは頂きたいと言うのであってはです、いつもタイミングを外してしまいます 、本当のおかげを。まあ私は一番よい例と言うかいつもその古賀先生達母子の事を申します。椛目時代に修行させてくれと言うよかろう、修行しなさいと電話をかけた。息子の古賀先生がやってきた、見たところこれじゃ御役に立つまいと思うた、教師を断念する筈だと思うた、それでもちゃんと奉仕着をもって、その翌々日にまたやって来た。
 それから四五日でした、もう本当に善導寺の香月病院の先生が往診に見えて、大坪先生この病人は早く帰しなさらんと迷惑がかかりますよと、早く帰しなさったが良いですよと、お話しなさった、だから私はその時にですね、そんな事になったら困るからとにかく、むごう言うてから古賀さんあんた熊本に早く引き上げて帰ったがよかよと、言うて帰しとったらです、まあ現在のと言うた大きな事はいえんにしても、いわゆる熊本とか伊万里地区の信心はあちらに延長して行かなかったです。
 昨日竹内先生から永々とした祝電、今日の御大祭の祝電を名古屋から受けた、読ませて頂きながら感動した、先生自身もそれを願っておられる、私の願いもそれである、私の願いをいわばそれを本当に私の願いとして、御信者さんが竹内先生、言うなら私の願いを竹内先生も同じそれを願いとしておられる、その事が成就する事を祈ります願いますと言う電文であった、言うならば千の味方を得た様な感じがする。
 これから私の信心を進める上に於いて、こう言う人達が居って頂くから心強い、それも古賀先生が合楽で修行しよってからの縁です、熊本から昨日トラックで米を運んで来た、此れなんかもやっぱりその端々であった、古賀先生が熊本からこちらへやって来て、それから古賀先生の話しを聞き伝えて、熊本からどんどんお参りしてくる様になった、その中の一人です、松村さんは熊本から参ってきとった、その時にどうでしょう、こげな病人を家においとったら迷惑だと言って、返しとったらもうそことは。
 もうスパッと縁は切れておったのですよ。今熊本佐賀の合楽の信心の延長は出来得なかったんです、三宝様とはそう言う事なんですよ、だからお互いがね、私は今日皆さんに聞いて頂きたいところはです、例えば神様のこう言う素晴らしいおかげを受けて、それこそ自慢話しの一つも出来る位のおかげを頂いて貰いたいと思う、少しはちっとあれはこの頃上上満々だと言われる様な、ものが態度から出て来る様なおかげも頂きたいと思う、本当に自慢せにゃおられん程しのおかげを頂いて貰いたいと思う。
 それはよし一遍落としても一遍はそう言う、おかげを頂いて貰いたいと思う、それならば必ず失敗は成功の元になる、私がいわば先程申しました様に橋の手摺の破れから、真っ逆様に落ちたと、例えて言うなら、けれども確かに落ちた落とした、けれどもそこからは確かに両方の腕とはいえんでも、例えば鯉の一匹でも抱えて上に上がって来たと言う様なおかげが受けられておる、落ち込まねば頂けるおかげじゃないと、だからそう言うおかげもです、頂いて頂きたいと思う。
 だからここで慢心がでるとおかげを取りはずすぞと、仰る様な慢心が出る程のおかげを頂いて取り落としても、かんまん、けどもそれなら私は有難いけれども、おかげが目の前にあるのに、それを私どもが取りそこなう、頂きそこなう慢心が出るとおかげを、頂きそこなうぞと言う事になる、その慢心とは三宝様を踏む様な、私は行き方こそが、私はかみさまが御覧になる慢心だと思う、いわゆるおかげにつながる、又はおかげを落とす、慢心だと思う。三宝様を踏むと言う事は又はそれをお粗末にする。
 例えば御飯なら御飯とにかくお粗末御無礼になってはいけません。
 食べ物なんかをお粗末にね、捨てたりしておるのは、もう実にいわば勿体ない話しでございましょう、ようにです今日私が三宝様を粗末にすると言う事はです、もう神様から御覧になったらもう本当に勿体のうて勿体のうてこたえん、もうその向こうにおかげがあるのに、そのおかげと出会う事が出来ない、また一歩手前でまわれ右をしておる、また摺りごうた、もう神様が御覧になって惜しい惜しいと思われるであろう。
 たべものを私は夕べも、十二時過ぎでしたでしょうかお夜食の時間。お夜食を頂いてそれから食堂へ参りましたら、もういっぱい食べ散らかしてから、昨日、かます寿司のお供えを沢山頂いておったが、もう真中のよかとこだけは食べとるばってんもう、頭のところあたりは捨てんばっかりにして置いてあるけん、こげな勿体ない食べ方をしてから、なぜ頭の方から先に食べんか。
 いいえ捨てはせんと家内は申しましたけれども、如何にも捨てた様な形で、そこにあるのを見てから。ああ勿体ない話しだとこう思う。だから私がかます寿司の頭の方を見てから勿体ないと思う話しの様に、神様もですもうそこにおかげが受けられる、材料が一杯転がっているものをです、それに見向きもしない頂こうともしない。いやもう向こうの方へもう捨てようとしておる。
 姿を神様が御覧になったらもうそれこそそれは慢心だと思う、神様が御覧になる慢心、それではおかげを取りそこなう、頂きそこなう事になるのです、今日はそこんとこ二つに絞ってですね。一遍本当に神様の間違いなさと言うものを、どうぞ把握して自慢話の一つも脇から見たら、本当にこの頃ちっとばかりあれが儲けでたから、おかげ頂いた、おかげ頂いたと言うてから、少し慢心が出とってじゃなかろうか。
 あの人はと言われる位のおかげを頂いて見たい、そしてそれをまた落としてもかまわない、時にはもうおかげじゃないお徳につながるものを頂いて、又言うなら這い上がって来れば、それで良いのであるから、けれども頂きもきらずに、おかげが目の前にあるのを只眺めただけでです、頂きそこなうなんてこんな馬鹿らしい話しはない、神様はまたこんなに残念に思われる事はなかろうと思うです。
   どうぞ。